「山と渓谷」誌(2013年3月号)に掲載された「チェルビーノ山登攀記録」を見て気に留めていたのが、何と言ってもきっかけだった。それまでに、マッターホルンは3回登頂していたし、一番最近は、2年前の8月にヘルンリ稜から登っていた。その時は、「50歳代で、もう一度マッターホルンを登りたい。」という希望が叶ったし、もう来ることはないと思っていた。でも雑誌の記事と「何が何でもマッターホルンに登りたい。」と言う意欲満々な新人(=弟子)の強い働き掛けもあって、まだ行った事のないイタリア側(リオン稜)からのマッターホルン登頂を計画することになった。マッターホルンはイタリア側では、「チェルビーノ」と呼ばれていて、チェルビニア地方の郷土の名山であり、シンボルである。さらに、マッターホルン登頂の歴史を振り返ると、この町は重要な役割を果たしている。今を遡る、1857年、イタリア人ガイド、ジャン・ジャック・カレル、ジャン・アントワヌ・カレル、エメ・ゴレの3人がこの村から、マッターホルン登頂に向けて出発している。また、エドワード・ウインパー、ジョン・チンダル等もこの村から登頂の試みをしている。そして、我らの「植村直巳」も若い頃、単独でここからマッターホルンを登頂している。
  
晴れた日に、麓から仰ぐチェルビーノ山            町を去る日の朝、撮影。雨が残り朝も早く静か。
 そんな歴史のある街だが、実際に行ってみると、標高2010mにある静かなリゾート地である。今のチェルビニアには、昔のブレイユ当時の面影は残ってない。街は教会とその広場を中心にホテルが多く立ち並んでいる。街の中心部を見て回っても15分とかからない。登山用品を扱う店も1件だけで、それもウエア中心。スーパーも1件のみ、ツエルマットのそれと比べても、品揃えなど遥かに貧相。チェルビニアは、位置的にはミラノからバスを乗り継いで3時間近く。山を挟んで向こう側はツエルマットである。シャモニーからもアクセス可能で、フランス人登山者にもカルロ小屋で会った。人口は500人程度と言うから、ツエルマットに比べると遥かに小さな町である。町の中心を外れた所に、観光案内所と登山ガイド事務所(同じ建物内)があって、着いた次の日(3日)には、そこに行ってチェルビーノ登山に必要な情報を収集したり、移動用にピックアップトラックの予約(100ユーロ)をした。ルート図が無かったので、1枚10ユーロもする「チェルビーノ山の登攀ルート付きの大きなポスター」を3人分買って、その内の1枚を悩んだ末、小屋までガイドブック代わりに持って行くことにした。雑誌記事では、「ジープ」と書いてあったが、今回は小屋までの荷物配達用の4駆車(三菱)だった。そんな町はずれにある高台のアパートメント形式のホテル(チエロアルト)が今回の宿舎だ。大きな建物内は、満室とは思うのだが、薄暗く静かで、人の動きが見えなかった。受付のイタリア人女性は英語が全く分からず、交渉内容の確認に一苦労。おまけに、受付に終始誰かがいるわけではない(いないことの方が多い)。これでホテルが機能しているとは思えない。その女性とは最初の1日しか会わなかったと思う。次に登山を終えて戻って来て(6日)、宿泊をもう1日延長しようと思ったが、誰に相談して良いのか分からなかった。応対してくれた受付の男性は、「次の日の9時に受付まで来い。支配人がいるから。」だった。次の日、言われた通り、事務室に寄ってみると一人の恰幅の良い男性が事務室のデスクに座っていて応対してくれたが、パソコンを見ながらの返事は素っ気なかった。「空室は一室も無いし、この時期どこのホテルも一杯だ。」と言われてしまった。荷物の整理もできてなかったし、困ったと思ったが仕方ない。11時のチェックアウトまでに退出できるとは思えなかった。何とか交渉して、時間を13時まで延ばしてもらった。やっと出発の準備をして、受付に1時過ぎに行き、出かける用意をしていると、愛想の良い管理人みたいなおじさんが来て、なにやら話しかけてきた。どうも部屋があるらしい。3人分のベッドがある訳ではなかったが、清掃中の部屋を見せてくれて、これでよかったら1人20ユーロで宿泊可能ということだった。本当なら、雨の降る中を、雨具を着て町にホテル探しに行くはずだったのが、土壇場で救われた。この時は素直に嬉しかった。すかさず現金でホテル代3人分とシーツ代を払ったのだが、後でシーツ代を追加で1人15ユーロ請求されることになってしまい、最初に金額を書いたメモとシーツをもらわなかったのが悔やまれたが、仕方なかった。すったもめたのやり取りの挙句、言葉が通じないこともあって3人分、20ユーロで妥協が成立した。とても後味の悪い話だった。
次の日(8日)は、早朝に起きて7時15分発のバスに間に合うように部屋を出て、チェルビニアを後にして、ツエルマットに向けて移動した。(広場の花壇に、ヨーロッパ数カ国の国旗が掲揚されているが、その中には日本の旗もある。でも、日本人観光客は皆無。)
 チェルビーノ山登山に向けて 山行日程:2013年8月4日(土)~ 8月6日(月)
 とにかく、日本人に馴染みの薄いイタリアの地方の町であることには変わりない。そのチェルビニアに行って、どのようにしてマッターホルンを登るかが課題だった。最初は雑誌の登攀記録を読んで「少し手強そうだが何とか行けるだろう。」位の気持ちだった。しかし、今日本に帰って来て思うのは、本当に気の抜けないハードな2泊3日の山行だったと言うこと。7月に入って、東京の山岳会(アルムクラブ)のホームページにチェルビーノの山行記録があるのを見つけた。 参考になった。水を5ℓ近く担ぎあげたことなどが書いてあった。そしてカレル小屋よりも下に、フィックスロープ(ウインパー・クラック)があって、手こずった様子なども分かった。こうなると少しずつだが、気構えが変わってきた。何とか腕力を強化しないとやばい。ロープを使って登ってもザイルが要る。これらを意識した練習を出発前の阿蘇の北尾根や宝満山の岩場でして、本番に臨んだ。人間だけならロープで登れるが、荷物を担いでは重過ぎて、登れない。それは過去のHPを見ただけでも分かったので、滑車を使った荷揚げ練習もした。これ位して行っても、次々に現れるフィックスロープには緊張を強いられた。雑誌の登攀記録にはこう書いてある。「ミックスクライミングに慣れている人で、垂直の壁も可能な登攀技術と腕力が必要。高所で1日16時間程度の行動ができる体力が必要。イタリア側からの往復の場合は荷物のデポができるため、体力の消耗は多少軽減される。」リオン稜からのマッターホルン登山の必須技術を的確に書いている。次は、もう体力的に絶対に厳しいと思うし、登りたいと思うことはないだろう。  
最初の難関のウインパークラック。
空荷で登って、その後荷揚げ。足がかりが乏しい。
8月4日(土) 天気:曇後晴

 (8:00チェルビニア発 → 8:45オリゾンデ小屋着 → 9:20同発 15:30 カルロ小屋着)

 天気はヨーロッパ滞在期間中を通して「ずっと晴れっぱなし」ではなかったが、この登山期間中だけは間違いなく天気に恵まれた。一日でもずれていたら、予定が立たずにチェルビニア滞在も10日近くなっていたかもしれないし、登れなかったかもしれない。出発時は曇りで、まだ薄日が射していた。7時半には待ち合わせ場所のホテルの前で待っていたら、予定の8時前少しになってトラックがやってきた。早速3人分の荷物を荷台に置いて出発である。街中の道を通らず、街外れまで行って小さなトンネルを通って、オフロード(荒地)の山道に出た。登山者やハイカーの通る道だが、山小屋の物資運搬用と希望する登山者のために、4駆車が走るみたいだが、道はすぐに九十九折りになり、標高をあげて行く。時々、切り返しをしないと通行できないような荒地の道だ。時間とともに雲行きが怪しくなってきて、小雨が混じりだした。まだ小屋にも着いてないのに心配だ。不確かな天気の中、オリゾンデ小屋着。すぐに荷物を取って、小屋に入った。食堂で荷物をほどき、出発準備をした。他にも、数パーティがくつろいでいた。 彼らも天気の回復を待って、我々の後からやってきた。その時、応対してくれた女性小屋番の方(ガブリエルさん)に励まされ、天気の回復した小屋を後にした。
 
天気の回復してきたチェルビニア山を、出発直後に撮影
(突き出た岩塔の下付近がカレル小屋 印)       (雪渓の通過に緊張を強いられる ▲印) 

col de Lion ポスターより)                    (実際のリヨンのコル。登山者が2人見える。)
 記事では、ガイド登山だと4時間半位で小屋に着くらしいが、3人で6時間はかかってしまった。コルへの道も、行きは、そうでもなかったが、帰りでは雪渓が溶けて凍っていたりして、決して安易ではなかった。全体的に逆層の岩場で、ガラ場の中の道を探しながらの登山だった。そして、かのクラック。既にそれまでにフィックスロープはあったが、ウインパークラックのロープは手こずった。 疲れてきているし、荷物もあった。空荷でも決して楽ではなかった。溝尾がヌンチャクを何カ所か掛けて登った。そして全員の荷揚げ。これも大変な作業だった。そして全員通過。後から来たヨーロッパ人パーティが、我々の横を余裕で抜いて行った。体格も違うし、体力差も歴然としていると思った。何とか難所を過ぎてもフィックスロープ帯は続いた。それらをこなして、やっと小屋が見えてきた。ガレ場と逆層の岩場の連続するルートを、ルートファインディングと綱登りに神経をすり減らしての1日が終わった。
 
小屋直下
 そして小屋に着いて見て、ビックリ。中は登山者で溢れていた。そして、驚いたことに日本人女性が1人いた。彼女は、他のヨーロッパ人のパーティから日本人が3人登って来ている、ということを聞いていて、既に我々のことは知っていた。お陰で寝床は、最上段の屋根裏部屋みたいな所だった。壁に向かって脚を伸ばすと、突き当ってしまうし、天井がすぐ真上である。何故、こんなにも登山者が多いのか? それは、今日の早朝の天気がおもわしくなかったので、明日の天気の回復を待って、登頂を狙っているパーティが多いからだろう。 小屋に着いて、さあ食事と思ったが、ジフィーズ(白米)とカレーの夕食でも、食べ残してしまった。食材も2日分担ぎあげたのに、疲れで食欲が起こらなかった。ワインもあったが、少し飲んだだけだった。狭い食堂はごった返し、順番に皆で食事をしていた。疲れもあったし、明日の早朝(5時)を出発予定にしていたので、早めに寝ることにした。(小屋使用料/15ユーロ・1人)
 8月5日(日) 天気/曇り晴れ→夜に雹
(3:00起床 → 4:45カレル小屋発 → 12:45山頂 → 22:30ビバーク )
 
印からが稜線。でも、頂上は遠い。             小屋から見上げるオーバーハング帯
 出発時間を5時にしていたのは、ガイドパーティに優先権があるのと、パーティ数も多いので、最初から渋滞が予測できたからだ。また、過去のHPでも「遅くとも5時までには、出発したい。」と言う記述もあった。朝は3時代には起床したが、「ヘルンリ小屋のような慌しさ」ではなかった。確かにガイドパーティもいたが、決して多くなかったと思う。かの日本人女性(北海道出身)もガイドと既に2泊しており、4時出発で準備を進めていた。それなりの気忙しさはあったが、どのパーティも手際よく朝食を済ませ、整然と出発して行ったようだ。日本人女性(クミコ)のガイドが、お湯をわけてくれた。穏やかで優しそうなガイドだった。我々も食事を済ませて外に出た。黒々としたオーバーハング帯の岩場のあちこちに、キャップライトの明りが見える。既に渋滞が始まっていた。天気は心配なさそうだった。5時過ぎでも辺りは暗く、キャップライトの明りが頼りだ。今日最初の関門は、このオーバーハングした岩場を越すことだ。意を決して、登り始める。今日は鎖場だ。太い鎖がハングした岩場を越えて、先へ続いていた。上は見えないし暗い。何が何でも登らないといけない、の覚悟で必死だ。途中1カ所、ビレイを取ったと思う。大変だったことだけは覚えているが、詳細は記憶が薄らいでしまって、定かではなくなっている。その後も逆層の岩場にロープが走っていた。( 帰りの時は、ここまで辿りつけずに、その上の岩場でビバークを余儀なくされた。)時間の経過とともに、少しずつ明るくなって来たが、どこを登っているのかが分からない。稜線に出れば、山頂も見えてくるが、まだそこにも達していない。山腹を右往左往しているような、状態だった。
 
4000m付近にある雪渓。雪渓を通ってルートが続いていた。  (印 7時前撮影)
 
ルートを間違えたパーティが戻って来て、ルートを
見つけて稜線(印 に向けて先を登る。)


朝も早く雪渓はしまっていて、アイゼンを
つけて慎重に行動する。高須、溝尾が見える。
先行パーティが雪渓を目指して、岩場を進んでいた(2p前の▲印付近)。このパーティも雪渓を通過後、ルートを間違えて戻ってきた。2、3パーティが一緒になってしまった。その後、運良く稜線に出るルートを見つけ、やはりロープ登りをして稜線に出ることができた。出た所(=下降地点)には、シュリンゲの束があって懸垂下降のポイントだった。稜線には出たもののそれからも長かった。ルートを探す心配は減少したが、今度はアップダウンの繰り返しが多くなって来た。高度感のある稜線を進むと、頂上が見えてきた。人影も見えた。「もう、山頂が近いのか?」と思ってしまった。実は、山頂手前に「ピックティンダル」というピークがあって、そこを通過しないといけない。前頁の写真⑬を撮った時点で、9:30頃。5時間近くが経過していた。今後の時間の予測はつかなかったが、天気も安定していたし、山頂は行けるものと思っていた。
 
稜線から臨む山頂。近いように見えても、ピック・ティンダル
印)を越えてアップダウンが続く。
 
ルート図で見る山頂稜線。チンダルピーク(印)
から先が、真骨頂である。印/カレル小屋。
 ・・これを登り稜に出て、ここをピック・ティンダル(4241m、3時間)へ。ほぼ水平なこの稜線を、最後にデリケートな深い鞍部「アンジャンペ(大股)」に出て、頂上の岩場へ。ロープのはっきりしたラインにそって、縄ばしご(エシェル・ジョルダン)=ジョルダンのはしご」を越えイタリア側(西)峰へ。稜線上を小鞍部を越えて主峰へ(カレル小屋から5時間)  アルプス4000m峰 登山ガイド/山と渓谷社 より。
 2年前に東京の山岳会が来た時は、このピック・ティンダル辺りで山頂周辺にガスが湧きあがるのを見て、天気が崩れを予測して、登頂を断念している。また出発時間も6:00と少し遅かったようだ。上記記述にあるように、確かに「ほぼ水平なこの稜線」かもしれないが、懸垂下降もあったし、補助ロープ(フィックス)を使ってのクライムダウンもあったりして、結構時間がかかっている。更に鞍部からの登りが、ハードワークで、ヘルンリ稜よりも遥かに厳しい。そして、最後の20mはあろうかと思われる縄ばしごだ。この頃には。既に登頂して帰路を急ぐパーティとすれ違うようになってきた。ガイドパーティが多かった。日本人女性のパーティとも、梯子のある場所の近くですれ違った。無事登頂したみたいだった。
 
絶壁にかかるロープと縄ばしごを仰ぎ見る。降りてくる登頂者の姿が見える。
 逆層の岩場にかかる、ロープと縄ばしご。山頂まで後一息の所で待ち構えている。荷物は必要最小限しか携行していなかった、それでも、この高所と長さに息を飲んでしまう。本当に、初登攀争いの頃は、こんなロープもない場所を通過して行ったのだろうかと、先人達の限りない努力に圧倒されてしまう。 我々も、今、カレル達の苦労の足跡を辿って、最後の縄ばしごを登ろうとしている。角材を編みこんだ、丈夫な縄ばしごが、時々揺れる。しっかり固定しているはずだが、気が抜けない。何とか3人繋がってここも越えた。越えて直ぐに頂上という訳ではなかったが、やがて頂上に出た。
 
山頂での記念の1枚。                   十字架を背景に周囲の山々を望む。
 登山の成功は、無事に下山すること。 (6日17:20 オリゾンデ小屋帰着)
ここまで何もなかった以上、次は無事に今日中に下山することだ。ひたすら来た道を戻るだけだが、時刻は既に13:00をすぎている。遅い時間帯だが、「8時か9時位には戻れるかな。」と思っていた。疲れていたが、足取りは決して悪くなかったと思う。最初の内は稜線上でもあり、展望も利いた。先ほどの縄ばしごの個所や、その他、何回となく懸垂下降を繰り返した。ルートを外れなければ、必ず要所要所にはピンがあった。ビレイ用だったり懸垂下降用だった。心配だったのは、稜線から外れて山腹に戻る所(■印/4頁前)。常に周囲を見渡し、トレースを探しながらの下山だった。懸垂を繰り返していると、時間の経過がとても早く感じる。その割には、大して下ってないのだが、何とか稜線から外れて、雪渓が見える所まで来た。途中、懸垂下降用のロープが振られたり、下降後のロープが岩角で動かなくなるハプニングもあった。時間は確実に過ぎて行く。いつまでも決して明るい訳ではない。急ぎたい気持ちもあるが、慎重さも欠くことはできない。 行きに通過した雪渓が長く感じた。その後にもフィックスロープがあった。その次のフィックスロープの個所で懸垂下降の準備をしている時に、とうとう雹が降りだした。もの凄い量の雹が、夜の闇の中で音を立てて降り積もって行く。一番のピンチだった。既にその前には、稲光がして落雷があった。ド迫力だった。天気の崩れるのは時間の問題だったが、タイミングが悪かった。本当に一晩中、天気が荒れるのかと思ったが、ほどなくして止んだ。しかし、あられのような雹が地面に溶けもしないで残ったまま、トレース等を覆い隠してしまった。それでも、小屋に戻りたい一心でルートを探すが、キャップライトを点けて、逆層の岩場を下って行くのも限界があった。最後の懸垂下降をした地点から、少し移動した場所でどうしようもなくなってしまった。その位置から、小屋の明りがみえていたが下降路がわからなかった。行動を打ち切ることにした。既に10時半は過ぎていたと思う。全ての衣類を身につけて、岩棚でビバークをした。夜が遅かった分、辛抱する時間が短くて済んだ。ロープで体を岩に固定して、3人でツエルトにくるまって、膝を抱えたり、もたれあったりして耐えた。思ったほどの寒さでなかったのが救いだった。羽毛服を持って来るのを忘れたが、、もう一枚ジャケットを着こんで何とかやりくりした。13年前にも同じマッターホルンでビバークを経験して、同じことをまた繰り返すとは思いもよらぬことだった。
 8月6日(月) 天気/晴れと曇り、一時雨 
 (5:30出発 → 7:30カレル小屋着 9:30カレル小屋発 → 17:20オリゾンデ小屋着 )
うつらうつらしていると、どうしても人の声らしきものが聞こえた。間違いなかった。確かに人の声だ。外もそれなりに明るくなっていた。行動再開だ。下るには不安が募った。もと来たルートを戻ろうとしていると、天候不良で早々に諦めて、下山してくるフランス人パーティと遭遇した。彼らに頼んで後をついて降りることにした。ルートは雹に覆われて分からなかったが、昨夜下ろうとしてあきらめた方向だった。運良くロープを見つけて、さらにオーバーハングした岩場まで来ることができた。懸垂下降をして小屋に戻って来た。小屋には誰もいなかった。荷物の整理と遅い朝食を摂って下山の用意をした。フランス人3人のパーティも戻って来た。年取った2人は60歳と62歳で、60歳の彼は娘を連れて来ていた。小屋からの帰路も決して甘くなかった。昨日の雹が吹きだまりみたいにしてルート上に溜まっていた。最初は歩いて下っていたが、フランス人パーティが懸垂下降をして、直ぐに追いついて抜いて行った。それに刺激されるようにして、昨日と同じく懸垂下降の回数が増えて行った。「リヨンのコル」に着いた。前方のピーク(リヨンの塔)から声が聞こえた。目を凝らして見ると、先ほどのフランス人パーティが見えた。ここはルンゼのトラバースに気をつけなければいけなかった。雪渓が溶けて凍結していた。更に下っても、雪渓はあった。途中、ザックを落として沢筋まで拾いに行く場面もあった。長い下降を続け、最後のガリー(岩溝)の下降で天気が崩れて、雨が降り出した。今度は雨が降り続くのかと思ったが、運良く止んだ。最後の雪渓を渡り、17:20にはオリゾンデ小屋に帰着することができた。もう歩いて下の町まで戻る気力はなかった。トラックに来てもらうことにした。ガブリエルさんが、我々の登頂を大層喜んでくれた。4人で記念写真を撮って、18:00には出発した。
 Reported by K.Mizoo   Photo presented by K.Mizoo