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 平成27年1月”北九州山岳同好会『嵐』”創立40周年に際し、会員である毛利氏が前会長の稲津 晴美氏に『嵐』命名の由来について、依頼したものです。
北九州山岳同好会『嵐』名称の由来にまつわる話 
 昭和49年10月僕がいた山の会を故合って退会、当時、登山愛好者の世界は狭く、山の店へ出入りしていれば、他会の情報が手に取るようにわか時代であった。
 その冬、「稲津さん正月の山はどこに行くのですか」とクラブに所属していなく、一人でこつこつとやっていると聞いてきた中山君が声をかけてきた。
 「大山へ行くつもりだよ !」 「あの〜、稲津さんさえよければ無理にとは言いませんが参加お願いできないでしょうか !」 そのあと他の山の会に所属していた入部君、田中君らと合流、その冬は、大山に入山した。
 伯耆大山の山行が終わり「稲津さんこれからどうするか !」 「彼らとまた一緒に登る時間ができればよいな」と、しばらく考えていた。
 未組織の登山愛好者は、まだいることだろう。
 また、雪山を見たくても見られない登山愛好者が山の店へ集まってくる。
 北九州近郊の山の会では、この頃、小倉山岳会、門司山岳会、若松山岳会、八幡山岳会と地域名を取った山岳会と職域の山岳部の全盛であった。
 新入会員募集では、新聞に”お知らせコーナー”があり、ハガキ1枚で掲載してくれていた。
 そんな状況下で、私の周りに自然と集った仲間と山の会を作ることを考えるようになった。
 新入会員募集に当たり、会の名称を考えなくてはならなかったが、親が生まれてくる子供の命名を考えることと何ら変わることはなかった。
 僕が考えた骨組みは、@地域性 A人と山、自然との触れ合い B山旅の要素 C山登りの大きな夢、案として、北九州岳人倶楽部、北九州山嶺クラブ、北九州山友会、北九州山旅クラブ、うる覚えだがこんな名称が浮かんでいた。
 「二つ玉低気圧の嵐の後に晴天をもたらす。」この「嵐」をイメージして、コーヒーを飲みながら、ノートの片隅に、『嵐』(僕としては、野球で言う2軍の名称)と書いていた。
 あれやこれやと考えているときに、入部君が、「2軍の『嵐』…。 おい ! ちょっと奇抜すぎるのではないか ?」と意見もあったが、僕が考えた名称にはちがいない『嵐』。
             北九州  (関東、関西の山岳会に対抗して)
                    山岳同好会(山を愛し、人を愛するクラブ)
                        (春一番、おお嵐<荒れ>二つ玉低気圧、おお嵐の後は
                  3〜4日晴天をもたらし、生き物を呼び起こす)決まった、
                     
北九州山岳同好会『嵐』”!
 新入会員募集ハガキを新聞社へ投函で、船が出た。
 もう後には、引けない腹を括る。
 新聞の片隅に、掲載され2週間も経っただろうか ! 原田君より電話をもらい、入会希望との事で、会って話を聞く。
 「ワー僕が第1号ですか?」彼は、営業マンで、口から先に生まれてきたような男、福智山ボッカから、足立山のRC、平尾台の千貫岩(今は、鬼の唐手岩)RCから七重の沢登り等、正月の八ヶ岳まで何とか登れるようになった。
 僕としては、冬の穂高 ! と考えていたのですが、総合的な技量に、だめだ ! 安全策で八ヶ岳に入山(余談になるが、僕たちのテントの隣は、長谷川恒夫氏、同人星の嵐、遠藤甲太と共に谷川岳で活躍をし、この時に初めてのガイドとのことだった。)
 その後、他の山の会から入部さん、渡辺さん、田中さん、赤迫さん(僕の家内)と勤労者会館の登山教室(門司山岳会の厚地さんが指導していたと記憶しているが)から田村さん、木村さんと九州登高会から毛利さんが入会し、坪井さん、大串さん、西さん、上野さん、谷崎さん、林さん、と思い出す名前を並べてみたが、皆、情熱にあふれていた。
 僕の後を、現在の会長である久保さん、毛利さん、東滝さん、岡村さん、田村さんらが引き継いでいただき、国内外に足跡を残し『嵐』の名称が発足当時のくすぐったい、イメージから九州に『嵐』ありと確立してきたのは、会員、皆様方の努力の積み重ねと考えています。
『嵐』名称の由来について、横道にずいぶんそれましたが、乱文にて失礼します。
平成27年2月 初代会長 稲津 晴美